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医療従事者として
5月4日、母が亡くなって4か月になる。20年近く膀胱癌と闘ってきた。
検査、入院、手術と何回も繰り返した。
最初は内視鏡手術やBCG、でもすぐに癌細胞は母を苦しめ再発。尿路変更手術もした。ストマをつける不自由な生活を強いられた。もういいだろう、もういいだろうと信じて入退院を繰り返し何度もの手術に臨んだ。
しかし、癌は決して消え去ることはなかった。最後まで母の身体を蝕んだ。大きな手術、膀胱全摘出。体力的にも負担が大きい精神的にもつらい決断。後の生活にも不自由が余儀なくされる。でもこれでがんとの闘いを終えることができるのであればこんなうれしいことはない。もっと長く楽しい生活が営めるのではないかと大きな期待を持った。幸いほかの臓器には転移はないといった説明だった。
母も決断してくれた。
当初から、泣き言を言わず前向きに治療に臨んでいた母だった。でもきっとつらかったのだと思う。辛抱して我慢して涙を隠して多くの治療に臨んだ。何回診察に通ったか。何回入院したか。何回手術したか。かわいそうに。
膀胱全摘出術を無事終え、術後の経過もよく笑顔の日々が続いた。
しかし、半年も経たずして再発・転移。なんてこと。
抗がん剤治療が始まった。
抗がん剤は母を苦しめた。つらそうな母を見ていても中断はしたくなかった。ここまで頑張ったのだ。もう少しだと。しかし抗がん剤の副作用で母の体はすっかり衰弱した。
ついに弱音を吐く母。
もういや、抗がん剤はしたくない・・・。
父は怒った。みんながこんなに頑張っているのになんだと・・・。父の思いもよくわかる。彼もずっと母をサポートしともに闘ってきた。
しかし、ふたりは話し合って抗がん剤治療を中止する決断をした。ふたりで決めたこと。納得しないわけにもいかない。究極の選択であったと思う。
抗がん剤治療をやめることになるともはや大学病院にはおいてもらえない。
余命半年と言われた。
転院。
療養病院。
ここにいつまでいるの?と質問された。答えられなかった。死ぬまでよと・・・。
結局、衰弱は止められずどんどん弱っていった。
私との最後の会話は「痛い。もう帰りたい。」忘れられない。
3か月ほど経った1月4日の2:30am頃病院から電話。昏睡、血圧も測定できない・・・。明け方息を引き取った。
ごめんなさい。何もできなかった。
つらっかたよね、よく辛抱したね、助けられなくて本当にごめんなさい。
きれいな顔だった。
でももう痛くもない、気持ち悪くもない、自分で歩ける。楽しんでほしい、お母さん!
母が亡くなってから多くの訃報を耳にした。
長いことメインテナンスに通ってきてくれた数名です。
Kさん、いつも楽しくおしゃべりした。お友達とお出かけしたことやおいしいものを食べたこと話は尽きなかった。口紅・イチゴ・ぎんなん・玉ねぎ・メロン等いろんな物も頂いた。
昨年末、予約が入っていたのに連絡もなくみえなかった。実はその前の検診の際、いつもの元気がなかった。身体が不調だと言っていたので心配になって電話してみた。携帯電話は不通、ちょっといやな予感がしていたら、やはり亡くなっていた。悲しかった。
Fさん、お風呂屋さんの女主人。
こちらもお友達との月1の集まりや旅行を楽しみにしている方でした。同じく私が担当している妹さんからお聞きした。
手術をした後、体調が戻らなくなったともことです。いい方でした。
Oさん、この方は院長の開業当初から患者さん。素敵な紳士です。
私も長いことメインテナンスさせてもらった。
いろんなお話をした。海外旅行の経験が多く、お話も多岐にわたっていた。
70歳意を過ぎてからパソコン教室に通いだした。メールを覚えたからメールしていいかというので何度かやり取りした。また、写真をたくさん搭載したパソコンを駆使した手作りの旅行記も何冊か頂いた。
奥様も私が担当しており、先日亡くなったことを伺った。遺骨とともにまさき歯科さんに入れてもらったインプラントも出てきたよと。ありがとうと言ってくれた。
クリーニング中、涙が止まらなかった。
母が、20年近く病気と闘ってきた年月と同じくらいこの方々と過ごしてきた。
お役にたてたのだろうか?そうであると信じたい。母には何もできなかった。でもプロとしてこの患者さんたちには貢献してきたと思う。
母も私が仕事して忙しくしているため、なかなか病院へもいけないことをよく理解してくれていた。これでよかったのかとも思う。
悲しいことには違いない。
それと痛感したことは、患者さんへの思いやりや説明責任。
母の主治医はただの優秀なサージャン。
母は手術実績のひとつにすぎなかった。
心が通っていない。
これで満足しているのだろうか?
私は、そんな医療従事者でありたくない。